空港にて

2005年6月2日 読書
作家、村上龍の短編集

コンビニ、居酒屋、カラオケボックスなど、そこに人は集まっているが相互の関係性が薄い、つまり“他者”のいない、現代日本の象徴的な“場所”を舞台とした短編集。“他者”が存在しないということは“自分”も存在しないということである。主人公の内面と外界は溶解している。それを示すかのように、主人公は眼に映るものを自動書記のように淡々とスーパーリアリズムに綴っていく。そこには情報量以外の意味は無い筈だが、元々文脈の存在しない文章の中に「タンパク質」とか「虫」といった単語が突然挿入さると、日常風景が病的で存在の危ういものであることに気づかされる。主人公と登場人物の会話もそうである。それぞれが一方的に喋っているだけで実は対話になっていない。それ以前に主人公は自らが喋っているという現実感すら希薄なのだ。“他者”も“自分”も存在しないとしたら均質で平等かと言えばそうでもない。表面的には同じに見えても、細かい差異による巧妙な“クラス”が存在している。もはや多くの人々が共有する“希望”などどこにもないということを作者は示している。1986年のの著書「走れ!タカハシ」では、相互にはまったく関係のない複数の人間が“タカハシ”によってささやかな希望を見出した。しかし本書に出てくるテレビ画面の中の桑田はただの風景でしかない。希望が“海外”や“ワイン”にしか見出せないニッポンはとても悲しい。作者はここ数年同じ主題を同じ手法で書き続けているが、いささかその手練には慣れがみられる。作者自身も閉塞感からの脱出、希望を求めているのかもしれない

いくつかの雑誌に掲載された作品を編んだ短編集。留学情報誌に描かれた分は、海外へ目を向けている人物を主人公にしており、他の短編は作者いわく「希望」を描いたらしい

読んでみると、文体が一貫していて内容に統一感がある。主人公の主観的な視点で現実の風景を切り取り、そこへの考察や時に飛躍しすぐに現実へ戻る思考の流れを淡々と描いている。登場人物達は各々社会的立場も年齢も違うが、その思考はめまぐるしく、主人公が無意識ながらも抑圧され切迫した精神状態にあることが匂わされる

非日常を提供するというより、現実を切り取っただけの作品になっている。そこに作者なりの「希望」を含ませる以上、提示される現実はどこまでも没個性で退屈でなければいけないようだ。ただ、その退屈さに見合った量の「希望」とやらを提供していないようにも思えるが・・・。最高のワインに代表される上質なものを世間が知ってしまった所為で格差の広がりを実感する人が増えそれについて悲しみを感じるだろうというお得意の自慢話にはもううんざりです、ハイ

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